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執筆者の写真杉本拓哉牧師
マルコによる福音書10章13-16節 
子どもをたちをわたしのところに来させなさい。 子どもたちを抱き上げ、手をおいて祝福された。

花材/白ユリ・カーネンション・シダ・カスミソウ・釣鐘草
花材/白ユリ・カーネンション・シダ・カスミソウ・釣鐘草

 私たちは、受け入れられる時・大切に扱われる時、喜びを感じるものです。逆に、ぞんざいな扱いをされる時・無視をされる時には悲しくなります。力があり声の大きい人の意見は通り、周りの人達の意見は通らないことになれば、ますます影響力の格差は広がるでしょう。


 2000年前、子どもは親の所有とみなされていました。小さくされていた存在でした。大人たちが真面目な話をしている最中、子ども達がイエス様の元に祝福を求めてやってきたのです。

 弟子たちは、イエス様がお話しに集中できるようにと、叱ります。しかしイエス様はこの弟子たちに憤り「子ども達を私の元に来させなさい」と語るのです。

 子ども達にとって自分たち一人一人が、かけがえのない存在として見出される時となったのです。しかも祝福はそれだけに留まりません。


 イエス様は「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」と伝えるのです。神の国は能力や功績によるのではなく、受け入れる時に味わうものです。お互いに受け入れ、受け入れられる中で、神の国は広がります。両手を広げたイエス様が、今日も私たち一人一人を招いておられます。

使徒言行録6章1-7節
あなたがたの中から、霊と知恵に満ちた評判の良い人を七人選びなさい。
祭司も大勢この信仰に入った。

花材/カサブランカ ほか(杉本牧師就任按手式の花)
花材/カサブランカ ほか(杉本牧師就任按手式の花)

 難民支援の働きをされている方から、次のことを聞きました。「私は支援する側・あなたは支援を受ける側という固定された意識ではボランティアを続けられなくなる。場面が変われば構造は逆転し、支援を受ける側から支援をする側が教わることも多々あるのだ。そこから相手の存在に対するリスペクトが生まれ、自分の中にあった差別意識や偏見からの解放につながった。」


 初代教会では二つのグループが対立構造にありました。地元民と移住者達です。当時教会はセーフティーネットの役割も果たしていました。食べ物が無い人に対して食事を整え、衣類が無い人には服を与えていたのです。そのような中、移住者のやもめに食事が少ししか与えられなかったという、いのちに関わる問題が起こります。弟子たちは全員で総会を開き、互いのいのちを大切にすることを決めました。霊的な食事である御言葉と祈りに専念する人達と、身体の栄養のために食卓を整えるリーダー達を選出し、役割分担をします。なんとリーダー達は全員、移住者達の中から選ばれました。選出された人達を信頼し・委ね・祈り・支えるようになり、教会はますます祝福に満たされていきました。

執筆者の写真杉本拓哉牧師
マタイによる福音書 28章16-20節
わたし世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる

花材/やなぎ・椿・葉牡丹
花材/やなぎ・椿・葉牡丹

 みなさんは『力』が与えられたら、何をしたいと願いますか?全てを行える能力と権利が与えられたら、一体何をするでしょうか?現在ミャンマーでは、力による支配が行われています。軍は何をしても許されていると信じ込み、一人一人のいのちが日に日に失われています。とんでもないことです。力は用い方によって危険性を伴うものです。


 聖書は、復活されたイエス様に全ての権能(能力と権利)が与えられたと宣言します。その権能をもって弟子たちに命じます。「すべての民の所に行き、教え、神様の名によってバプテスマを授け、弟子にしなさい。」全ての権能があるならば、人々を強制的に従わせることも出来たはずです。しかしそのようなことはされなかった。自分さえ良ければという価値観ではなく、共に生きるために権能を用いられた。イエス様は人々のために、十字架に架かり・復活されました。つまり、自分のために人々のいのちを奪う支配者ではなく、人々のいのちのために自らをささげた支配者でした。私たちはそれぞれに与えられている力をどのように用いるのでしょうか。イエス様はあなたに向かって「共に生きよう」と招いておられます。

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