コヘレトの言葉 11章1-6節
あなたのパンを水に浮かべて流すがよい。月日がたってから、それを見いだすだろう。
①聖書に書かれている「パンを水の上に流す」とは慈善行為を勧めることわざです。「情けは人の為ならず」と近い意味を持っています。神は私たちの行為を全てご存知だ、という信仰が背景にあります。
②パンとは、神の御言葉の象徴です。それを語り伝える伝道者は、人々の無関心や抵抗に空しさを覚えることもあります。しかし時に、不思議な御業を神は見せて下さいます。時が良くても悪くても、語り伝える重要性が示されています。
③自分自身を水に浮かべることを想像してみましょう。この世は川の流れのように、常に動きながら歴史を重ねています。神の創られた極めて良い世界で、身を委ねて生きることができます。しかし傲慢さや堕落など、私たちの様々な罪は、世界を醜くしてしまっています。神の世界を神に取り戻すように、世界の課題に取り組む人を、神は求めておられます。それは大きな話だけではなく、あなたの身近な世界をより良くするために、自らを献げる人のことです。無意味に思えたとしても、神はいつの日か応えてくださるという希望があります。命のパンであるイエス・キリストは、罪の赦しのためのいけにえとして御手に委ねられました。
広島キリスト教会協力牧師 高橋秀二郎師
音声メッセージ
使徒言行録 8章26-40節
宦官は、「手引きしてくれる人がなければ、どうして分かりましょう」と言い、馬車に乗ってそばに座るようにフィリポに頼んだ。
幼い頃、保護者に手を引かれて歩いた思い出があるかもしれません。新入社員として働き始めた時、先輩がやり方を示してくれたでしょう。新しい趣味を始めるにあたって、先達者に教えを乞うこともあります。ギリシャ語における「手引き」とは「道案内をする」とも訳すことのできる言葉です。
エチオピアの宦官が、エルサレムの神殿で礼拝をささげるために遠くからやってきます。社会的地位があり、経済的にも豊かでしたが、その心の奥底には痛みと悲しみを抱えていました。ようやく神殿にたどり着いても、入れる場所には制限があり、宦官は会衆として認められないという規則もありました。拒絶されたような寂しい帰り道、神様への飢え渇きをもって聖書を読む中で、まるで自分の事が書かれていると思える箇所が目に留まります。説き明かしてくれる存在を求めた所、主によって遣わされたフィリポとの出会いがありました。フィリポは、聖書に預言され、苦しみを担われた救い主を伝えます。宦官の痛みや悲しみを知っておられる、イエスへと道案内をします。その背後ではイエス・キリストご自身が、宦官の祈りを聞き、その手を引いて命の道へと導いてくださっているのです。
音声メッセージ
使徒言行録 8章1-25節
ペトロとヨハネが人々の上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。
あなたにとって神様とはどのような存在でしょうか。自分に良いものだけを与えてくれると信じるならば、事故や災害に直面する時に神様の存在を見失うかもしれません。
誕生したばかりの教会は、ユダヤ教の権威から目を付けられ、石打の刑にあう人や逮捕される人が出てきました。しかし、これらの出来事を通して人々は散らされていき、神の国の福音がエルサレムを越えて広がっていったのです。その一つにサマリアという町がありました。ユダヤ人とサマリア人は歴史的な確執があり、犬猿の仲でした。チャレンジしなければ出会えない人がいます。
関係性における壁は存在します。しかしその壁を乗り越えて、福音は届けられました。特別な誰かではなく、イエスの弟子たち皆が、イエスが語られたように福音を語り、イエスがなされたように癒しの御業を成し遂げます。それは人の力ではなく、神ご自身が働かれた出来事と言えるでしょう。弟子は師匠に倣(なら)い従います。イエスは神と人との壁を乗り越えて、この世に来られました。エルサレムの教会とサマリアの教会が、壁を乗り越え一致して祈りを献げる中で、聖霊の賜物が注がれていきました。
音声メッセージ