使徒言行録 4章32-37節、5章1-11節
「あなたは人間を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」
聖書における人間は完璧なものではなく、多くの過ちや罪が描かれています。市民だけでなく王様のスキャンダルも、黒く塗り潰されずに赤裸々に記録されていることは、聖書を信頼できる要素の一つです。私たちは都合の良い面だけを見せたくなり、よろしくない部分は隠したくなる性質があるからです。それでも権力者によって削除されず、聖書に記述が残されていることは、神様の目から見た時に全ては明らかにされるという証でもあるでしょう。
神様は愛なる方であり、正義なる方でもあります。赦される方であり、戒められる方でもあります。もしも優しさを履き違えて、「何をやっても許される」、「これくらいならば問題ない」と神様の領域を侵していくならば、厳しい判断がなされるのかもしれません。ある夫婦は共謀し、神様に全てを献げることを約束したにも関わらず、ごまかして一部を残します。それは神様への欺きとなりました。既に献げられた神様の物を、奪い取る行為となったのです。主によって罪から解放された者は、自由の中に生かされています。この自由をどのように用いていくのでしょうか。神の愛と神の義を追い求めてまいりましょう。
音声メッセージ
使徒言行録 4章23節-31節
「主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください。」
人生は追い風の時だけでなく、向かい風がやって来る時もあります。海上に浮かぶヨットは、向かい風の中でも揚力を用いてジグザグに進路を取り、風上にある目的地に到達するのだそうです。逆境も前に進むための機会となり得るのです。
イエスが福音を語り病気を癒す中で得た評判は、権力者たちの妬みを買いました。その結末である十字架はたった二カ月前のことです。権力者たちにとって、イエスの復活と救いを告白する弟子たちは目障りな存在でした。そこで弟子たちを捕らえ「二度とイエスの名を語るな」と脅します。それでも弟子たちは、神を畏れながら神の正しさを追い求めます。逆に権力者たちは、民衆を恐れながら自己正当化のための行動をとります。社会的な強者に目をつけられる時、普通ならば自身の安全を祈るのではないでしょうか。しかし弟子たちが祈ったのは、主の御業と御言葉が前進することだったのです。全ての造り主なる神、聖書の理解を与える聖霊、聖なる僕イエス、三位一体なる神がここに現わされています。神の御思いに心を合わせ一つとなる中で、聖霊の満たしがあり、今までイエス一人が担っていた働きは、共同体全体の働きへと変えられていきました。
音声メッセージ
使徒言行録 4章1節-22節
「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」
大切なひとつを決める時に、怖いと思ったことはありませんか。進学先や就職先を選ぶ時、それは他の道を断念することでもあります。宗教においても、一神教を信仰するならば同じことが言えるでしょう。その場合、他の宗教者に対して、どのような態度で向き合うのでしょうか。
最初期のキリスト教はユダヤ教の一派であると自認していました。しかし、復活をめぐる観点で対立が起きたのです。その結果、神殿で権威を振るっていた祭司たちにより、弟子たちは逮捕されてしまいました。取り調べの際、弟子たちはイエスこそ自分の救い主であることを告白します。
もしも自分の信じているもの以外を、世界から排除しようとするならば、十字架や迫害や戦争が待っていることでしょう。自分が信じるものをひとつに決めることと、他者の信仰を否定することを繋げなくて良いのです。イエスは、一人ひとりの信仰を強要せず、それぞれの選びを大切にされました。教会はこの方に習います。その上で、「倒れ込んでいた時に手を差し伸べ、立ち上がらせてくださった私の救い主は、イエス・キリストただ一人です。」と告白することも尊重されていくのです。
音声メッセージ