使徒言行録 1章1節-11節
「地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」
リレーにおいてバトンパスする区間を、テイクオーバーゾーンと言います。限られた距離でスピードと息を合わせてバトンを受け渡すエリアです。前走者の思いは、次走者へと引き継がれていくのですが、そのためには二人が重なって走る場所が必要となります。ルカ福音書の終りと使徒言行録の初めは、まるでバトンパスするかのように、似た内容が描かれています。
私たちはどこかで聞いてきました。二千年前のイスラエルで産まれ、十字架で死に、三日目によみがえられ、今も生きておられるお方のことを。イエス・キリストというバトンが、時を越えて場所を越えて、今、届けられているのです。その中では「待つ」ということも大切です。聖霊なる神様の力注ぎを待ち望むこと。これは自分から始まる事柄ではなく、神様から始まり、神様へと繋がる出来事だからです。バトンが届けられた走者はベストを尽くして、隣人へとバトンパスしていきますが、時にはバトンを落としたり、転んだりしてしまうこともあるでしょう。それでも大丈夫です。イエス・キリストが私たちのバトンを受け取り、アンカーとして走りきってくださる約束をしてくれているのですから。
音声メッセージ
ルカによる福音書 14章15節-24節
主人は言った。「通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ。」
もしも興味のある試合の観戦に、特別に招待されたら嬉しくなります。しかしそれが当たり前だと感じるようになったり、助けを借りなくても自分の力で行ける気になったりしたならば、ありがたみは無くなるでしょう。
神の国の宴会においても同じことが言えます。たとえ話では、財産や仕事や家族が増えた人達は、予定されていた宴会の出席を断り、自らの満足を優先しました。大勢が招かれている宴会ならば、自身が居ても居なくても同じだと考えたのかもしれません。前もって参加の表明をしていたとしても、行かないのも個人の自由だと考えていたのかもしれません。自分を低くしすぎたり高ぶったりする時、自己中心的になります。宴会の主人である神様が、どれだけ一人一人のことを大切に思ってくれているかなど想像もしません。
逆に、宴会に参加したのはどのような人なのでしょうか。それは神様に飢え渇き、満たされることを願う人。神様を前にして、欠けだらけの自分に気付く人。自分の力では、神の国に行けないと自覚する人です。イエス・キリストによって、全ての人に招待状は届けられました。感謝と賛美をもって応答していこうではありませんか。
音声メッセージ
ルカによる福音書 7章36節-50節
「この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」
最も子どもが安心して泣ける場所は、抱きしめてくれる保護者の胸の中でしょう。しかし成長の過程で、「泣いても解決にならない」、「人に弱みを見せたら付け入れられる」等、泣いてはダメだという教育がなされているように思います。それでも安心できる場があるからこそ、出かけて行く勇気が与えられるのではないでしょうか。私たちには、たとえ失敗したとしても帰れる所が必要なのです。
罪深い女性と呼ばれ、見下されていた人が居ました。本人も自覚があったのでしょう。自分の力では、どうすることも出来ない罪に気付き、泣きながらイエスに近づきました。イエスは、この人の涙を受け止め、罪の赦しを宣言し、主にある平安の内に送り出されました。この女性と対比して描かれているのが、正しく生きようとしてきた律法学者です。罪を犯していないと自認するならば、神に赦しを求めません。そして彼の目に正しくない行動をするイエスを見て、尊敬に値しないと判断しました。それでもイエスは、一人一人を等しく愛し、受け入れて下さるのです。だからこそ大胆に主に近づき、安心できる場所に立ち帰り、平安の内に送り出されていこうではありませんか。
音声メッセージ