ルカによる福音書 24章36節-53節
そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。
『平和』①安らかに和らぐこと。穏やかで変わりないこと。②戦争がなくて世が安穏であること。(広辞苑参照)ヘブライ語の『シャローム』は、平和と訳されますが、それだけでなく神や人との関係が健全に満たされた状態を表します。ユダヤでは日常的にこの言葉で挨拶を交わし、お互いに平和を祈ります。言葉の持つ意味合いから、自分だけの平和はあり得ません。もしも隣人が痛み苦しんでいるならば、平和ではないのです。
イエスは人々の真ん中に立ち、「シャローム」と声を掛けます。弟子たちはイエスを裏切って逃げたという負い目がありました。イエスが死んで葬られたならば、亡霊なのではないかと恐れました。復活の知らせを聞いていても、イエスを目の前に見ていても、復活を信じることのできない弟子たちは、疑いの心に支配されていました。神との関係も人との関係も、傷つき分断されていたのです。それでも平和を祈り、関係を回復してくださる和解の主がおられます。疑心暗鬼の弟子たちの真ん中で、同じ釜の飯を食べてくださる主がおられます。十字架と復活の救い主が、私たちの心の目を開き、つなぎ合わせ、証人として立ち上がらせてくださるのです。
音声メッセージ
ルカによる福音書 24章13節-35節
「イエスは生きておられる」
人生において、期待どおりに進まず、失望して帰ることもあります。道を見失い、迷子になってしまうこともあります。大切な人を亡くし、途方に暮れて沈み込んでしまうこともあるかもしれません。そんな時、どうしたら希望をもって立ち上がり、目的地を見定め、前に進んでいけるのでしょうか。
『エマオ途上』の物語は、「イエスは生きておられる」という言葉を中心に展開されます。イエスの十字架について説明する弟子と、イエスが自分自身について聖書に書かれていることを説明する場面は対になっています。エルサレムからエマオへ帰る道のりは、エマオからエルサレムへ向かう道に対応し、暗い顔は情熱を持った表情へと変えられていきます。
この変化は、弟子たちの「イエスとは何者か」という認識が改められたことによるのでしょう。弟子たちはイエスを預言者の一人であり、イスラエルの王としてローマの支配から解放してくれる存在だと期待していました。しかしイエスは、聖書全体で預言されていた救い主であり、死を乗り越えて今も生きておられる方だったのです。イエスは今日も、私たちの道に寄り添って歩き、いのちの糧を与えてくださっておられます。
音声メッセージ
ルカによる福音書 23章50節-24章12節
「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。」
人間関係も神様との交わりも、信頼が大切です。少しずつ関係性を深めていく時もあれば、一気に距離を縮めるような出来事もあるでしょう。順調に進むこともあれば、立ち往生してしまうような困難な場面もあります。特に、大切な存在との別れは、希望を見失ってしまってもおかしくありません。事実、弟子たちは皆、そのような絶望を通らされました。
それがイエス・キリストの十字架です。それぞれの時に、主は一人一人の名前を呼びます。臆病さを抱えていた議員は立ち上がり、イエスの遺体を引き取る勇気が出ました。その様子を見ていた女性の弟子たちは、腐臭を防ぐための香料をもって墓に来ましたが遺体は見つからず、空っぽの墓と天の使いに出会いました。女性たちは男性の弟子たちに復活の知らせを分かち合いますが、多くの人はたわ言だと思って信じませんでした。しかしペトロは墓に走り出し、遺体を覆っていた亜麻布を見つけます。証は隣人に響き渡ると、心と体を揺り動かします。その先で出会うイエスの後ろ姿は、暗闇を照らす光となり、打ちひしがれた者を立ち上がらせる勇気となるのです。死を越えた命の福音、それがイエス・キリストの復活です。
音声メッセージ