使徒言行録 20 章 1-16 節
「騒ぐな。まだ生きている。」

旅は出会いと別れが重なり合う、特別なひと時です。数日で次の町に向かうこともあれば、年単位で留まることもあるでしょう。胸の内をさらけ出し、大切にしているものを響き合わせれば、得難い出会いとなるかもしれません。そして豊かな出会いの背後には、別離の悲しみが待っています。
パウロは旅をしながら、主のみ言葉を分かち合います。一週間の滞在となったトロアス教会、その最終日に悲しい事故が起こりました。夜遅くまで続いた集会において、三階の窓辺に座っていた青年が落下してしまったのです。青年の体を抱きながら、聖霊なる神様はパウロを通して、命の言葉を語ります。それはイエス・キリストが罪と死から勝利なされたイースターの喜びに重なります。死から命への転換、主の栄光が彼の上に現されたのです。私たちの目には、心身ともに命を失っているようにしか見えません。それでも主なる神様は諦めず、命を見出されます。身体には安息を、心には励ましを、燃えるような霊の火を、主にある命を分かち合ってくださるのです。命を失っていた人に、命が与えられる。それは本人のみならず共同体の慰めとなります。そして新しい命の交わりの中、再び一週間の旅路へと送り出されていくのです。
音声メッセージ
ヨハネによる福音書 20 章 1-18 節
イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。

大切な人を葬ったお墓が、知らない内に空っぽになっていたらどうなさるでしょう。おそらく心の中は混乱と嘆きと怒りが渦巻きながら、急いで家族や警察に知らせるのではないでしょうか。マリアもまた墓が空になっていることに気付き、弟子たちの所に走っていって知らせました。弟子たちが墓を調べてみると、遺体を包んでいた亜麻布だけが不自然にも残されていました。もしも墓荒らしの仕業ならば、布を解く必要もなければ、証拠を残すこともありません。弟子たちは一通り調べて帰りましたが、マリアは墓で泣き続けていました。
その場所にイエスは来られますが、マリアはイエスだと気付きません。なぜなら暗闇の墓の中で死んでいるイエスを求めているので、朝日に照らされ生きておられるイエスは意識の外にあるからです。それは私たちの常識でもあるでしょう。イエスは「マリア」と名前を呼びます。呼びかけに応えて 180 度向きを変える中で、復活のイエスとの出会いが与えられました。それは闇から光への道しるべとなり、死から命への方向転換となるのです。そして今度は喜びの知らせを伝えるため、マリアは弟子たちの所へと送り出されていきました。
音声メッセージ
ヨハネによる福音書 19 章 16b-30 節
イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。

今の時代、人それぞれに痛みを抱えていることでしょう。身体の痛み、心の痛み、精神的な痛み、社会的な痛みがあります。学校や会社や家庭でも、人間関係のすれ違いから傷つけ合ってしまうこともあります。力の矛先が自分に向かう人もいれば、他者に向かう人もいます。そのような中で、なぜ私がこの苦しみを味わうのかと嘆くこともあるでしょう。人生の意味や目的など、真理を求める心が育まれるかもしれません。イエスもまたこれらの痛みを抱えながら、十字架を背負われました。
教会のシンボルとも言える十字架、それは単なる死刑ではありませんでした。長時間の身体的な痛みに加え、大衆に裸を見られ罵倒される精神的な苦しみ、家族や弟子までも周りから非難される社会的な痛みもあります。十字架の目的は、ローマに歯向かう者はこのような痛い目に遭わせるぞ、という脅しだったからです。イエスは自ら十字架を背負われました。神の国の王として、すべての国民の罪を背負い、贖い出すためです。贖いには、没落して手放された一族の土地や人々を買い戻す意味が含まれます。そして主イエスは十字架上で「成し遂げられた」=「完済した」と宣言してくださったのです。
音声メッセージ
