ルカによる福音書 4章31-44節
「ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない。わたしはそのために遣わされたのだ。」
世界中で分断が起こっています。国・民族・宗教・政治・世代・経済など、挙げればきりがありません。争いの理由の一つに、自分や自分達さえ良ければというエゴイズムがあります。自己中心的な正しさに固執し、隣人の痛みに対する想像力が欠けていってしまった結果、分断は広まってきたと思うのです。行きつく先には、争いが待っています。中村哲氏は「平和には戦争以上の力があり、平和には戦争以上の忍耐と努力がいる」と語ります。違う者同士が共に生きるのはチャレンジです。理解し合えない部分を抱えつつも、お互いを尊重し合うことに他ならないからです。
イエスは自分自身を閉ざすことなく、開かれていました。礼拝所の中でもトラブルを巻き起こす人に関わり、悪霊を追い出します。感染リスクを抱えながらも、高熱で苦しむ人に寄り添い、回復を与えます。噂を聞きつけ、集ってきた病人たち一人一人にイエスは手を置いて癒します。人々はそのようなイエスを別の所に行かないよう囲い込もうとするのです。しかしイエスは、神の国の福音を告げ知らせるため出かけて行きます。分断を繋ぎ合わせ、他者へと開かれていくその場所で、イエスは今日も働いておられるのです。
音声メッセージ
ルカによる福音書 3章21-22節、4章1-13節
さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され、四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。
『悪魔』は聖書の中で、神の権威の下に置かれ、人を誘惑する許可を得ます。悪魔の目標は、誰にも気づかれないように、人を神から引き離すことでした。「神なんて居るはずないよ」、「信じても信じなくても、幸運や不幸があるよね。それなら信じる意味はないじゃん」、「今まで通りで全く問題ないよね」等、優しく囁きかけるように誘惑するのです。
神から引き離す力を認識し、今までの歩みから神に立ち返ろうとするならば、気を付けなくてはいけません。悪魔はその人を敵とみなして、攻撃される可能性があるからです。欲求を刺激して、神以上に大切にしているものがあるか心を探ったり、自己中心的な歩みへと誘惑されたりすることもあるでしょう。権力やお金をちらつかせ、支配関係に陥らせることもあります。決して、神を信じているから安全だ、神に守られるから何をやってもいいとは言えないでしょう。
私たちは誘惑に弱い存在です。だからこそ、イエス・キリストは来られ、私たちと共に生きられました。そして誘惑に打ち勝たられたイエスがおられるので、今週一週間も不安の中でも恐れずに、イエスにならって歩もうではありませんか。
音声メッセージ
ルカによる福音書 3章1-20節
悔い改めにふさわしい実を結べ。
林竹二という教育哲学者は「学んだことの証はただ一つで、何かが変わることである」と述べます。知識の取得だけに留まり、生活に反映されないであれば、学んだことにはならないのです。
洗礼者ヨハネは罪の赦しを得させるために、悔い改めのバプテスマを宣べ伝えます。罪の自覚がなければ、赦しを求めることはないでしょう。ヨハネは鋭く指摘します。「隣人が困っているのに、分かち合えないあなたに罪がある」、「自分さえ良ければと、搾取するあなたに罪がある」、「他人のものを羨み、力で奪い取るあなたに罪がある」。罪の自覚が与えられたならば、行動に変化があらわれます。悔い改めとは、自己中心的な歩みから、神様に向かって方向転換することだからです。隣人への愛は、全ての人が共に生きられる世界に向けてのチャレンジとなります。それは主の道を整えることであり、その道のりは、愛がない自分自身に気付かされる歩みかもしれません。だからこそ、イエス・キリストはこの世界に来られ、愛を成し遂げて下さいました。このイエスの御業を信じる礼典がバプテスマです。この方が共に居られるので、愛をあらわす日々の歩みは、イエスの御業への参与となっていくのです。
音声メッセージ