- 杉本拓哉牧師

- 2024年3月24日
- 読了時間: 2分
ヨハネによる福音書 19 章 1-16a 節
そこで、ピラトは、十字架につけるために、イエスを彼らに引き渡した。

「自分たちが生き延びるために、イエスを殺害するしかない」このように意思決定した祭司長たちは、イエスを捕らえます。そして民衆を巻き込んだ群集心理(衝動性・暴力性・自己抑制の喪失)の中、強行的に十字架刑を訴え出ました。総督ピラトは、ローマ法に則ってイエスを取り調べますが、罪を見出すことはできません。そこでユダヤ人指導者たちの顔を立て、鞭打ち刑にしたのです。先端に金属片や動物の骨が括りつけられた鞭により、イエスの肉体は引き裂かれ、血が流れます。さらに兵士たちは、イエスに茨の冠と紫の服を着せて、まるで王様のように装いつつ侮辱しました。それでも狂気に満ちたユダヤ人たちは十字架刑を求め続け、脅しに屈したピラトは最終的にイエスを引き渡したのです。
イエスは不当な裁判結果にもかかわらず、黙って判決を受け入れます。なぜ反論しないのでしょう。偶然にもそれは過越祭の準備の日、贖いの供え物である小羊が屠られる日でした。洗礼者ヨハネはイエスを見た時に、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」(ヨハネ 1:29)と語ります。多くの人々の罪の贖いとして、神の子イエスは十字架へと向かって行ったのです。
音声メッセージ
ヨハネによる福音書 11 章 45-57 節
国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ、と言ったのである。

正義はどこにあるのでしょう。正しい事をしようとしても思いが踏みにじられ、失望してしまうこともあります。やられたからやり返す、これこそ正義であると考える人もいます。ともすると多数派や権力者が幸福を感じる方向に社会が進み、その結果、少数派が虐げられてしまう現実もあります。そのため公平さや道徳性も、正義を問う中で重要な視点となります。一人一人の正義は異なります。だからこそお互いの言葉に耳を傾け、尊重し合いながら選び取っていくのです。
当時のイスラエルはローマの支配下にありつつも、一定の自治権は認められていました。それが最高法院であり、私たちでいう国会と裁判所の働きの一部を担っていました。臨時の議題は、巷で話題のイエスという男の処遇です。多くの民衆は、イエスの教えと奇跡を目にして、ダビデのような王様の再来を期待しました。しかしローマの支配下にある状況で、新しい王様のウワサは、皇帝の逆鱗に触れかねない話題です。最悪の場合、神殿も国民も国家も失う可能性があります。そこで彼らは自らの正義に従って、イエスの殺害を決意しました。しかし神様の思いは人の思いを越えた計画で、救いをもたらす贖いの十字架だったのです。
音声メッセージ
- 杉本拓哉牧師

- 2024年3月10日
- 読了時間: 2分
ヨハネによる福音書 6 章 41-59 節
「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。」

「いただきます」と、私たちは食事の前に感謝をささげます。生き物の命をいただいて、生きる糧にしているからです。食べる物によって体は作られ、出会いによって心は育まれていきます。私たちは愛を糧にすることもあれば、憎しみを糧にすることもできます。私たちの心と体は、何を摂取して生きているでしょうか。
キリスト教会が大切にしている儀式に、「主の晩さん」があります。パンをイエスの体として、ぶどうの杯をイエスの血として受け取ります。この出来事の中で、イエスの十字架を想起しているのです。私たちに連帯し、私たちの罪を一身に引き受けられた結果が、十字架の裁きでした。イエスの十字架の出来事を通して、私たちの罪は支払われたのです。主の晩さんに与る時、イエスが私たちを罪から救い出し、贖われたことを覚えます。そしてイエスの体と血をいただく時、私たちの内に生きておられるイエスの命と出会うことでしょう。そして同時に、私たちを引き寄せて包み込む、イエスの愛の内に、いきいきと生きる命の道を見出していきます。私たちの内側も外側も、イエスの愛と命で満たされているのです。日々この命に生かされ、命をいただいてまいりましょう。
音声メッセージ