ルカによる福音書 2章39-52節
イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された。
大人だと一般的に認識されるのは、20歳の成人式を迎える時でしょうか。一昔前までは、15歳の元服によって大人と見なされていました。ユダヤ教では13歳になった男子は、バル・ミツバ(戒律の子)という儀式を行います。律法を守れるようになったとして、大人となるのです。そして直前である12歳の時には、大人になる準備として親の仕事を習うようになります。イエスもまた、父親ヨセフの大工仕事を手伝い始めていたことでしょう。
イエスの家族は毎年の過越祭、エルサレムに巡礼していました。祭りが終わって帰ろうとしても、全国から集まった人々でごった返しています。両親はイエスが一緒に居ないことに気付いて方向転換し、立ち帰ります。そしてようやく3日後に、神殿で律法学者たちと話し合うイエスを見つけたのです。神様を求め語り合う場所の真ん中に、神様の事柄の中心にイエスはいました。十二歳のイエスは、父親である主なる神様の働きを担い始めていたのでしょう。その後イエスはナザレで両親のもと生活します。神と人とに愛されて、心も体も成長していったのです。私たちもまた神と人との恵みを受け取り、育まれてまいりましょう。
音声メッセージ
ルカによる福音書 2章21-38節
八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。
子どもの名前には、名付け親の願いや希望が込められていることでしょう。イエスの名前には「主は救い」という意味が含まれます。しかし当時、救い主と呼ばれていたのは、地中海地方を武力によって平定したローマ皇帝アウグストゥスでした。片方は、若く貧しい両親のもとで無力な赤ん坊として生まれたイエス。片方は、絶大な権力を誇る皇帝。私たちは目に見える事を重視してしまいがちです。
幼子イエスのところに、シメオンとアンナがやってきました。シメオンは、祈りを主が「聞いてくださった」という名前です。彼は民族の慰めを祈りました。アンナは「恵み」という名前です。彼女は国が救い出されることを祈りました。救い主を待ち望んでいた彼らは、赤ん坊のイエスと出会います。イエス・キリストは、人々のしんどさの只中に生まれ、私たちの悲しみと喜びに寄り添い、共に生きてくださるお方です。私たち一人一人と出会うために、「主は救い」である方がこの地上に産まれた奇跡がクリスマスの出来事でした。祈りは聞かれ恵みに満ち溢れ、彼らはイエスと出会います。私たちも、目に見えない救いをイエスを通して受け取り、隣人へと喜びを分かち合っていきましょう。
音声メッセージ
コリントの信徒への手紙二 9章1-15節
各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。
私たちには想像力が与えられています。誰かにプレゼントを贈る時には、相手が喜んでもらえる物を考えることでしょう。聖書の中には、最も重要な教えとして『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』、『隣人を自分のように愛しなさい。』という言葉があります。愛は、言葉と行動で表されていきます。隣人とは誰の事でしょうか。隣に座っている人、隣の家の人、隣の国の人は、悲しい出来事によって涙を流してはいないでしょうか。自分事としての想像力が求められます。
コリント教会は、経済的な厳しさの中にあるエルサレム教会へ献金を献げようとしたのですが、様々な事情により滞ってしまいました。自分さえよければと恵みを抱え込む、貪欲な心はいつも身近にあります。しかしスチュワードシップ(神様の恵みを預かり、用いていく管理人)の心で、祝福を喜んで分かち合うようにと勧められています。なぜなら時間も能力も財産も、全ては主から預かっているものだからです。主を愛し隣人を愛し、お互いの欠けを補い合う中で、喜びと悲しみを分かち合う中で、主の豊かな祝福の実りに共に与ってまいりましょう。
音声メッセージ