ルカによる福音書 6章46-49節
わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞き、それを行う人が皆、どんな人に似ているかを示そう。それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている。
何事も基礎は大切です。習い事でも仕事でも、基礎をおろそかにすると結果は散々な事になるでしょう。「守破離(しゅはり)」という言葉があります。まずは師の教えを「守り」基礎を身につけた後、他からも良いものを取り入れて枠を「破る」、最終的に師の下から「離れ」自己を確立します。
イエスが弟子達と過ごした期間は、わずか3年半程でした。十字架と復活の後、イエスは天に昇ります。師が教えている内に、基礎を守り身につける必要があるのです。それでも弟子達は、主の言葉に聞き従いませんでした。王様の命令に従わない召使いはいません。コンサルタントの指摘を受け入れないならば、契約は解消されます。主の教えを守らないならば、弟子ではないでしょう。
イスラエルの乾季には、川が砂地になります。平らな砂地の上に、基礎もなく家を建てることは、簡単で早く安くできます。しかしその家は、雨季になると洪水に襲われてしまうことが明らかです。試練の時、何を基礎にしているのかが明らかになります。イエスはいのちを慈しみ、土台のしっかりした岩の上に家を建てることを命じます。イエスこそが私達の足元を支える、救いの岩となられました。
音声メッセージ
ルカによる福音書 11章33-36節
「あなたの中にある光が消えていないか調べなさい。あなたの全身が明るく、少しも暗いところがなければ、ちょうど、ともし火がその輝きであなたを照らすときのように、全身は輝いている。」
私たちは見ているものに影響を受けます。子どもは友達や親の姿を見て、真似をしながら成長します。誰かの優しい行動を見て、自分の心まで穏やかになることもあれば、その逆もあります。「考えは言葉となり、言葉は行動となり、行動は習慣となり、習慣は人格となり、人格は運命となる」との名言がありますが、そもそも何を見ているのかによって考え方は培われていきます。
私たちは、太陽や電気やロウソクの光の下で生活しています。もしも暗闇の下ならば、人にぶつかり、物につまずくことでしょう。聖書はイエスこそ光であると証言します。私たちの生活の中心に光はあります。しかし振り返る時、果たしてイエスは、私たちの生活のどこに見出されるのでしょうか。考え方の基準として、イエスを尋ね求めているでしょうか。どこかイエスを、見えにくい場所に隠したり、まるで居ない存在として吹き消したりする事があるのではないでしょうか。イエスはそのような私たちのところにまで来られました。光は既に与えられているのです。だからこそ自ら吟味して、光の中を歩みましょう。主の光は自分を照らし、隣人を照らし、全体を輝かしていくのですから。
音声メッセージ
ヨハネの黙示録 22章1-21節
命の木に対する権利を与えられ、門を通って都に入れるように、自分の衣を洗い清める者は幸いである。
旅をする時には、どこから出発して、どこに到着するのか計画を立てます。現在地と目的地が必要です。そして同伴者として誰と一緒なのかも重要でしょう。聖書全体を旅と見なすならば、出発は創世記で、目的地は黙示録となります。中心人物はアダムから始まり、アブラハムやダビデ、イエス・キリストへと繋がります。そして現在も黙示録に至るまでの旅路を、私たちは歩んでいます。その道のりは、初めから終わりまで、主が共におられる歴史でもあります。
黙示録では、世の終わりにおける裁きと救いが語られています。もしも、「信じなければ地獄行きだ」と、聞く人の不安をかき立てるようにして恐ろしい裁きを語り、信仰を強要するのであれば、カルト宗教と変わりません。むしろ聖書は、終末を語ることにより「あなたの今の選び取りが、将来に続くものとして生きよ」、「最後の時を過ごすかのように、今を主の前に精一杯生きよ」と勧められているのではないでしょうか。イエスは全ての人を、主が成し遂げられた救いの道へと招きます。主が再び来られる時、全ては明らかになります。あなたの心は今、どこにあるのでしょう。どこに向かって、誰と共に歩んでいくのでしょうか。
音声メッセージ