使徒言行録 12章1-19節
教会では彼のために熱心な祈りが神にささげられていた。

人は理不尽な出来事にどのように立ち向かえば良いのでしょうか。いじめや差別を経験した人は、なぜ自分がこのような苦しみを味わうのかと理由を求めるでしょう。震災や戦争で危機一髪助かった人もまた、なぜ自分が生かされたのかと理由を求めるかもしれません。
神様を信じれば全て上手くいくなどと、聖書は記していません。ヤコブは殉教し、ペトロも牢屋に捕まっています。それでも奇跡的に天使に助けられ、ペトロは解放されます。その背後には教会の祈りがささげられていました。喜びの出来事です。しかし、生死を分けた違いはどこにあるのでしょう。本人の信仰や立場、それとも他者の祈りなのでしょうか。なぜペトロは助かり、ヤコブは助けられなかったのでしょうか。
神様はこれらの問いに沈黙しつつ祈りを聞かれます。人の罪の結果であるにもかかわらず、神の責任のもと、命を引き受けられるのです。計り知れない神の思いがそこにあります。そして人には想像もできない救いの御業をも見させてくださるので、私たちは絶望に囚われることなく、希望をもって神様に祈りをささげることができるのです。死から命へと導かれる主が、共に泣き共に喜んでくださるのですから。
音声メッセージ
使徒言行録 11章19-30節
主がこの人々を助けられたので、信じて主に立ち帰った者の数は多かった。

民主主義とは、多数派が正解となり、少数派の意見を無視して良いということではありません。ヒトラーは、選挙にて多くの票を受けて選出されましたが、気に入らない少数派を順々に排除していきました。世界大戦後の民主主義は、多数決の原理を守ることと、少数派の権利を守ること、この相反するかのように思える両方を尊重するものになっています。私たちは事柄によって、多数派になったり少数派になったりします。どちらであっても声を出すことができる仕組みと交流が必要です。そして時に、低みから見る視点が真理に近いことがあり得るのです。
初期キリスト教は、イエスを救い主として信じるユダヤ教の一派でした。基本的にユダヤ人がユダヤ人に向けて、旧約聖書とイエスを結び合わせ、救い主だと証言していったのです。そして多くのユダヤ人は、口伝律法の教えを守り、異邦人との交流を制限していました。しかしエルサレムから遠く離れた国や島の出身で、イエスを信じる少数のユダヤ人が、福音を異邦人に語りかけていったのです。主はこの人々を助け、豊かに用いられます。そしてバルナバ、サウロが加えられ、キリストの弟子たちは『クリスチャン』と呼ばれるようになりました。
音声メッセージ
使徒言行録 10章23後半-48節
御言葉を聞いている一同の上に聖霊が降った。

出会いというのは不思議な出来事です。学校、職場、趣味、地域、年齢が異なれば接点を見出すことは難しいでしょう。一説によると、人生の中で話が出来るくらいの関係となり得るのは3000人程だと言われています。世界人口の割合から考えると、天文学的に僅かな確率になります。
聖書の中には、主の導きによって奇跡的に出会った二人がいます。ローマの百人隊長コルネリウスは御使いの言葉にすぐさま従い、今まで会ったことも無かったペトロを家に招きます。そして主に期待し、御言葉を待ち望みました。ユダヤ人であるペトロにとっては、異邦人との交流が律法で禁じられていたため、通常ならばお断りする案件です。しかし、主の幻と霊の勧めがあり、招きに応じることにしたのです。
両者の間には、価値観や文化による隔ての壁がありました。それでも主に従って歩む中、思いが新たに変えられて、壁を乗り越えることができたのです。主の導きにより御足の跡を歩む時、今まで思いもしなかった出会いがあります。コルネリウスは、ペトロを通して語られたイエスの証を心から受け入れます。心をご存知の主は、彼に聖霊を注ぎました。こうして異邦人にまでいのちの福音が分かち合われていったのです。
音声メッセージ
