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執筆者の写真杉本拓哉牧師
コリントの信徒への手紙一 1章18-31節
十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。

花材/紅葉・ゼラニウム
花材/紅葉・ゼラニウム

 「正直者が馬鹿を見る」ということわざがあります。意味は、悪賢く立ち回ることで利益を得る人がいて、正直に生きることで損をする人がいる。正しく生きることがままならない世の中を批判する言葉です。人を助けても自分が犠牲になるならば意味がない、と思うのは一般的な感性でしょう。

 聖書は、神の愚かさは人よりも賢いと語ります。イエス・キリストは普通の人々の「自分さえ良ければそれでいい」という自己中心的な罪により十字架で処刑されました。人の策略が成功し、イエスの敗北としか思えない十字架の死。そこには神の思いが込められていました。それは、自分の命をかけてでもあなたや私を救いたいと、願われたのです。人々の罪を自らの罪として受け取り、加害者と連帯された十字架。理不尽な出来事に苦しみながら、被害者と連帯された十字架。イエスは十字架上で両手を広げます。イエスの愛と犠牲を、人間が完全に理解することはできません。だからこそ、「信じる」という一歩が人に委ねられているのです。人はどれだけ努力しても、自分の力で自らを救うことはできません。だからこそイエスは地上に来られ、人々を救いへと招くために手を差し伸べられているのです。


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コリントの信徒への手紙一 1章1-17節
皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい。


花材/南天・百合・藤
花材/南天・百合・藤

 私たちは生きている中で、様々な課題に直面します。その一つにグループ間での争いがあるでしょう。政界、学校、会社、保護者会など、人が集まる所はこの問題と無関係ではいられません。そして教会においても派閥争いがありました。

 「私はこの教会を設立したパウロにつく」、「私は今この教会に仕えており説教も雄弁なアポロにつく」、「私はイエスの直接の弟子であるペテロにつく」、「私は直接キリストから示された通りに自由に生きる。他の人の言うことなんて聞かない」それぞれがバラバラな思いで一致がありませんでした。パウロは全ての派閥に勧告します。「私たちは誰を信じているのか。教会の中心は何なのか。」近しい価値観を共有する仲間だけで集まるならば居心地は良いでしょう。しかし隣人のことは見えなくなります。大切にしていたこだわりは、自分にとって都合の良いままでありたいという思いに変質してきます。教会の中心が人間的な思いになるとき一致はなく、神の教会ではなくなってしまうのです。「イエス・キリストを私たちは信じる。教会の中心は十字架だ。」原点に立ち返りましょう。神様が私たちをイエス様との交わりに招いてくださっているのですから。



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執筆者の写真杉本拓哉牧師
マルコによる福音書 16章1-8節
婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。

 イースターとはイエス・キリストの復活をお祝いするキリスト教のお祭りです。日本においても10年程前から食品メーカー・テーマパーク・ゲームイベント等でアピールされ、一般的にも認知されてきたように思います。

 キリスト教は復活を語ります。私たちの常識では、死んだ人間が復活するなどありえないことです。それは2000年前においても変わらない常識です。それでも教会は、イエスの復活の出来事を語り伝えているのです。聖書を読むと、復活の現場を見た者は居ないことが分かります。他に誰も居ないお墓の中、父なる神はイエスを復活させられました。

 男性の弟子たちは十字架という自らの罪を前にした時、イエスを見捨てます。女性の弟子たちは復活という自らの理解を超えた救いを前にした時、逃げ出します。それにもかかわらず、復活のイエスは一人ひとりを再び見出して招いてくださっているのです。再会を果たした弟子たちは、今までとは違う一歩を踏み出します。イエスを見捨てて逃げていった弟子たちが、イエスが歩まれたように生かされていく。言葉では説明できない奇跡の基、それがイエス・キリストの復活です。


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