マルコによる福音書 15章21-39節
「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」
十字架はキリスト教のシンボルマークですが、一般的なアクセサリーのモチーフにもなっています。しかし考えてみると、十字架はギロチンや電気椅子と同じく死刑道具の一つです。この処刑は見せしめのために裸で晒され、身体的、精神的、宗教的な苦痛を長い時間与え続ける残酷な刑罰です。
イエスは十字架につけられました。当時イスラエルを支配していたローマ総督は、罪を見出せなかったにも関わらず保身のためにイエスを見捨てました。弟子たちも、兵士たちも、祭司長たちも、自己中心的にイエスを見捨てました。人間の本質がイエスを十字架につけたのです。人間の罪深さが十字架に現れています。イエスは神様すらも自分を見捨てたと思えるような十字架にいます。全てから見捨てられる悲しみを受け取られ、全ての被害者と共に十字架につけられました。もう一方で、十字架につけられるのは罪を犯した人物です。イエスは全ての罪を引き受けられ、加害者として十字架につけられました。被害者であり加害者であるイエスは、全ての人に連帯して、十字架で両者を繋いでいます。神と人とを繋いでいます。このイエス・キリストと十字架で出会う時、救いが迫ってくるのです。
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マルコによる福音書 14章32-52節
「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」
本音と建前という言葉があります。しかし綺麗に整えられた建前ばかりが増えてきて、本心の言葉が見失われてきているように思います。クラスの中でも、表向きは問題のない友達のふりをしながらも、陰では敵対関係ということもあるそうです。世界を見ても、初めは同胞が虐げられているのを助けるために戦うのだと言われていました。今ではその建前はどこにいってしまったのでしょう。病院までもが攻撃の対象になりました。
真実の言葉が求められています。それは祈りの姿勢でもあります。神様の前で正直でいい。取り繕わなくていい。カッコつけなくていい。イエスは祈りの中で、恐れも悩みも苦しみをも主に打ち明けて委ねます。弱さを見せているのです。弟子たちは目を覚まして祈っていなさいとの求めに応えられず、眠り込んでしまいます。そしてイエスが捕まるとき弟子たちは皆、イエスに背を向けて逃げ出してしまいました。イエスは痛みを抱え、悩みを引き受け、苦しみもだえながらも弟子たちを守ります。そして私たちの痛みを、ご自身の痛みであると引き受けて、共に悲しんでくださる。カッコよさとは程遠い所で、イエスの愛が分かち合われているのです。
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マルコによる福音書 10章32-45節
あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。
「偉くなって影響力を持ちたい」など、みなさんは出世欲がありますか?ある調査結果では、出世にこだわらない人が多くなってきたと言われています。ただし、出世欲は低下してもゼロにはなりません。一番になりたいとは思わなくても、成果は認められたい、自分の意見を通したい、隣の人より評価されたいと願うのは人間の性質なのではないでしょうか。
12弟子のヤコブとヨハネは、イエスの十字架と復活の予告を聞いた直後に、右大臣・左大臣の地位を願います。もしも余命宣告を家族に伝えた後、子どもたちの勢力争いが始まったら悲しくなります。当時のイスラエルはローマの支配下にありました。虐げられていたからこそ、支配者になりたいという価値観は常識だったことでしょう。それにもかかわらず、イエスは「偉くなりたいならば、奴隷になりなさい」と逆転した勧めを語ります。奴隷は身代金により解放されていく存在です。そしてイエス御自身が身代金として、あなたに自由を与えるために来たと語られる。奴隷ではないので関係ないと思う時、イエスの救いは他人事になります。私の出来事と受け止める時、十字架は喜びとなり、復活は希望へと変えられていくことでしょう。
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