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執筆者の写真杉本拓哉牧師
マルコによる福音書 2章1-12節
イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。

花材/青木・水仙
花材/青木・水仙

 血筋によって立場が決められた封建主義の時代から、自らの努力や才能によって評価される能力主義の時代になりました。能力主義は良い面もありますが、課題も残されています。それは成功者が傲慢になり、取り残された人を自己責任という言葉で切り捨てるようになったことです。持って生まれた才能が、たまたま評価される時代であり社会だったという謙虚さが求められます。過去に必要となった性質と、将来必要となる性質は異なり、今はその間の時代。だからこそ私たちは、異なる性質を持つ他者と共に生きる責任を持ち、共同体で利益と負担を分かち合う。能力主義に代わるものは民主主義です。(参考:マイケル・サンデル)

 身体がマヒで動けなくなった人を4人は協力して、イエスのもとに連れてきました。当時、病は犯した罪の結果であり、自己責任だと考える人がいました。イエスはマヒの人に対して、罪の赦しを宣言します。それは神様との関係が回復されるためでしたが、周りの人には分かりません。イエスはこの宣言が有効であることを知らせるために、病を癒します。マヒで動けなくなっていた人を中心に、隣人の愛と信仰が育まれ、神様の栄光が現わされたのです。


メッセージ音声ファイル


執筆者の写真杉本拓哉牧師

マルコによる福音書 1章40-45節

さて、重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。


花材/梅・ゼラニウム
花材/梅・ゼラニウム

 昔も今も、皮膚の病気で苦しんでいる人がいます。その中でもハンセン病は、社会から疎外され、本名を名乗ることも許されず、子供ができないような手術を無理矢理させられ、虐げられてきた歴史があります。差別や偏見の色眼鏡は、学びと出会いを通して外していくことが求められます。

 イエスのもとに、一人の皮膚病患者がやってきます。当時ツァラアトと呼ばれる特別な病は、宗教的に「汚れている」と見なされていました。更に、罹患者は共同体から排除されてしまいました。まるで死んだものとして扱われ、宗教的にも社会的にも、痛みを負っていました。この人はイエスに対して「お望みならば、私を清くすることがおできになります」と主導権を委ねつつ、願い求めました。イエスは律法に違反してまでも、直接この人に手を触れて「私は望む。清くなれ」と宣言します。何年ぶり、何十年ぶりの他者との触れ合い。イエスの温かい手がこの人を包み込みました。すると汚れはイエスを侵さずに、イエスの清さがこの人の汚れを飲み込んだのです。社会的にも宗教的にも死んでいたこの人に、イエスの命が注がれて、再び共同体へと送り出されていきました。


メッセージ音声ファイル





信徒説教
マルコによる福音書 5章25-34節
「この方の服にでも触れればいやしていただける」…イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」

カレンコエ・サザンカ
カレンコエ・サザンカ

 あなた自身を、今日の冒険に十分にささげなさい。いつも隣にいる道連れのわたしを頼りにして、いのちの道を大胆に歩みなさい。あなたにはそう確信するだけの根拠がある。あなたの人生のすべての日々、永遠のいのちに向かって、わたしがともに歩んでいるからだ。

 あなたから豊かな人生を奪おうとする不安や恐れに、屈してはいけない。前もって問題を予測しようとしないで、わたしに信頼してあるがままに向き合うこと。信仰の創始者であり、完成者であるわたしから目を離さないでいなさい。そうすれば、道の前方に待ちかまえる多くの困難は、あなたがそこに行きつくまでに消滅する。

 不安を感じはじめたらいつでも、わたしがあなたの右の手を堅く握っていることを思い出しなさい。わたしの存在からあなたを切り離せるものは、何ひとつとしてないのだから...。


サラ・ヤング『わたしは決してあなたをひとりにしない』P67

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