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執筆者の写真杉本拓哉牧師
マタイによる福音書 9章35-38節
イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を延べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。                 

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物事を相手に伝えるときに、より分かりやすくするため、たとえが用いられます。本日の聖書箇所で、イエスは群衆を『羊』と『収穫物』として表現します。

その『羊』は、健康な羊ではありません。飼い主の居ない羊。弱り果て、その上さらに打ちひしがれた羊のような、群衆の姿です。羊飼いの守りも導きもないため、夜も休むことができず、食物や水も満足に得られない羊。絶望の悲鳴をあげながら、それでも一縷の望みを持ってやってきた群衆を、イエスは痛みを覚えるほどに愛を持って見つめました。そして、教育を施し、良き知らせを語り、病を癒していきました。

イエスは、ご自身を求めてやってくる人々を見て、『収穫物』にたとえます。収穫はあり余るほどあるのに、働く人が少ない。だから主に祈り求めなさい、と語ります。やせこけた群衆の姿にも関わらず、豊かな実りを見る。失業者が多い時代に、働き人を求める。イエスは人々に、安心と栄養を与えます。だからこそ、イエスに結ばれる人々は溢れるばかりの命に与る。イエスの目は、取り切れない程の実りを見ています。悲しみの悲鳴は、嬉しい悲鳴へと、主によって変えられていく。希望はここにあります。

ヤコブの手紙 5章7-20節
あなたがたは「然り」は「然り」とし、「否」は「否」としなさい。(12節b)
あなたがたの中で苦しんでいる人は、祈りなさい。喜んでいる人は、賛美の歌を歌いなさい。(13節)

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聖書は『忍耐』を勧めます。正直避けたくなるような言葉ですが、文脈があります。全てを我慢しなさいという意味ではなく、『主が来られる時』を待ち望むように言われているのです。忍耐の理由は、神様に対する期待です。希望があるからこそ、待ち望むことができるのです。

 それに加えて、聖書が語る忍耐は、一人きりの歩みではありません。私たちの人生、まるで神様が自分を見捨てているような、辛い時や悲しい時があります。そのような時は、隣人と共に祈り合おう。まるで神様なしでも自分は生きていけるような、楽しい時や嬉しい時があります。そのような時は、隣人と共に賛美しよう。そのような時、私たちには忍耐が必要です。一人ではなく周りの友と助け合いながら生きていこう。孤独に苦しむことも、孤立を喜ぶこともしなくていいのです。

 ことわざにも『喜びは分かち合うことによって倍になり、悲しみは分かち合うことによって半分になる』と、あります。隣人と祈り合う時、その悲しみをイエス様も分かち合われます。隣人と賛美をささげる時、その喜びをイエス様も分かち合われます。忍耐する時、イエス様も共に忍耐されているのです。

執筆者の写真杉本拓哉牧師
ヤコブの手紙 3章13-18節
上から出た知恵は、何よりも先ず、純真で、更に温和で、優しく従順なものです。憐れみと良い実に満ちています。(17節)
義の実は、平和を実現する人たちによって、平和の中に蒔かれるのです。(18節)


花材/とくさ・ひまわり
花材/とくさ・ひまわり

 『知恵』という言葉から何をイメージするでしょうか。知識人・賢者・哲学者・おばあちゃんの知恵袋という言葉もあります。聖書における『知恵』は、時代によって定義が移り変わってきました。①人が賢く生きるための実践的知識。②神様から与えられる賜物。③人格をもった知恵=イエス様。それらの知恵には『主の群れを導き、主の宮を建て上げる』という共通項を見出すことが出来ます。


 心の思いは、言葉として出て、行動に現れます。私たちは蒔いた種を刈り取らなくてはいけません。知恵があるならば、ふさわしい実を受け取ることでしょう。それは、純粋で、平和的で、素直で、慈しみに満ち、裏表も偽善もない、神様の義の実です。自慢や、嘘や、自分勝手さや、ねたみ心が、実として現れることがあるかも知れません。その時は、どのような種が私たちの心に蒔かれているのか、吟味する必要があるのです。
 知恵は天から降ってきました。努力して身に着けるものではなく、与えられるものです。ただし、何のために知恵を求めるのでしょうか…。隣人と共に主のために生きる時、知恵は発揮され、共同体が建て上げられていきます。イエス様から蒔かれた種を豊かに実らせ、隣人と共に、収穫の実りを味わってまいりましょう。
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