ヤコブの手紙 2章1-13節
私の兄弟たち、栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じながら人を分け隔てしてはなりません。(1節)
人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下されます。憐れみは裁きに裁きに打ち勝つのです。(13節)
私たちは違いに敏感です。そして線引きされた外側に対して、排除しようとする力が働きます。クラスにおいてはいじめが、地域においては差別が、民族においては虐殺が、歴史上幾度となく繰り返されてきました。差別は身近な課題でしょうか、遠く離れた問題でしょうか。部落差別・人種差別・性差別・性的少数者差別・「障碍」者差別。もし、あなたの家族が、差別を受けてきた方と深い関係を結びたいと言われた時には、どのような言葉をかけるでしょうか。
誰かを上に持ち上げ、誰かを下に貶める『差別』を聖書は否定します。「重んじる命」や「軽んじる命」があるのではない。命に優劣はなく、神様はあなたの命も、隣人の命も愛されたのです。差別の先には、命がおびやかされる未来が待っています。だからこそ差別は社会全体の問題であり、私自身の課題です。「差別なんて無い」と、目をつむり、耳を閉ざすのではなく、目の前の小さな叫び声に耳を傾けましょう。イエス・キリストに目を留め、耳を澄ませましょう。神の立場に固執することなく、最も小さな存在となり、命を懸けて愛を注がれた救い主。この方によって、私たちに自由がもたらされているのですから。
ヤコブの手紙1章19-27節
聞くに早く、話すに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。(19節)
御言葉行う人になりなさい。(22節)
今回の題は、「気は長く、心は丸く、腹立てず、神は大きく、己は小さく」と読みます。
日常において「怒り」に振り回されることはありませんか。怒りによって傷つけたり、傷つけられたりしたことは、誰しもあることでしょう。今後一切怒ってはいけない、ということではありません。怒りそのものは大切な感情で、命の危機から抜け出したり、脅威から自分を守ったりすることを助けます。しかし時に、この怒りによって大切な存在をも傷つけてしまうことがあるのです。問題は用い方です。怒りに支配されるのではなく、怒りを適切にコントロールする必要があるのです。怒った時に、ひと呼吸を置くことは効果的です。心理学的知見では、怒りの背後に、悲しさや寂しさや恐れや不安があるといいます。怒りを知ることは対策となるでしょう。
聖書は、「怒るのに遅いように」と語ります。人が怒りを発する多くの場合、自分の正義で相手を裁きます。つまり、神様を第一としない怒りは、神様の義になりません。自らの努力には限界があります。しかし神様には限界がありません。み言葉は心に届きます。私に届けられたみ言葉、命の言葉であるイエス・キリストによって、み言葉を行う者となりましょう。
ヨハネの手紙一 5章6-15節
何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れて下さる。(14節)
「証し」という言葉は元来、法廷用語として用いられました。言い換えれば、裁判の折に答えた「証言」を意味する言葉です。裁判で嘘をつくことは偽証罪にあたります。旧約聖書の十戒においても、偽証することは神様に対する罪であると定められています。
キリスト教は迫害された歴史と、迫害してきた歴史をもっています。ヨハネの手紙が書かれた時代は、迫害されていた時代です。イエス・キリストを信仰していると証しすることは、文字通り命がけだったのです。しかし、そのような人の証し、それにまさる神の証しがあると聖書は語ります。人々はイエス・キリストを証しします。では神であるイエス・キリストは何を証ししているのでしょうか。それは、 イエス・キリストの命を人々に与えられたことを証ししているのです。十字架につけられ死に至るまで、命がけで人々を愛することを決められた、イエス・キリスト。それが神の証しなのです。人々が生きるようになるように。愛を受け取り、愛を与える、愛し合う者となるように。神の光によって人の闇を照らすように。イエス・キリストは命を、私たちに与えられました。この方を教会は証ししているのです。