ヨハネの手紙一4章7-21節
愛する者たちよ、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、
愛する者は皆神から生まれ、神を知っているからです。
みなさんにとって『愛』とは何でしょうか。思いやる心、恋人を慕う情熱、家族への慈しみ、「月がきれいですね」、「あなたのためなら死んでもいい」と表現した人もいます。聖書で語られている神様の愛(アガペー)は、自らの欲求を満たすための愛でなければ、感情的な愛でもありません。アガペーとは、相手を大切にする決意が込められた愛なのです。
多くの場合、価値を見出された時に、愛するという行動になります。しかし神様は違います。条件無しで、何よりもまず先に、神様が私たちを愛することを決められた。神様は人々に何回も裏切られ、傷つけられました。しかし神様は私たちを諦めず、愛し続けた。この神様の愛を知り、愛を受け取り、愛に留まる人に対して、今度は愛する一歩へとチャレンジが与えられている。それは、お互いが生きるようになるためです。誰かが犠牲になるのではなく、共に生きるようになるために神様は愛を示された。世の中では、小さくされた存在が虐げられています。まず知るところから始めましょう。興味をもって関わりましょう。相手を大切にする決意をしましょう。
神様の愛が広がっていきますように。
ヨハネの手紙一1章1-10節
わたしたちの喜びが満ちあふれるようになるためです。
私たちにとって、『光』とは何でしょうか。太陽、電球、携帯、ロウソク等々、思い浮かべるかもしれません。人間は光によって食べる物が与えられ、光によって行動することができています。時に、熱中症や日焼けを恐れて、光を避けることもありますが、基本的に光を頼って生きています。私たちの目には見えない体内においても、ビタミンDは光を浴びることによって生成される栄養素です。
聖書は、神は光であると語ります。私たちが隠していたものが、光によって照らされることもあるでしょう。しかし、光によって私たちの命は保たれています。私たちの抱えている闇も、神の光によって照らされていく。夜の闇が太陽の光によって押し出されていくように、闇は光に勝たなかった。完璧な人間になれとは、聖書は語りません。自分の罪を神様の前に明らかにする時、罪人である自分は神様の光によって照らされていく。神様の光によってあらゆる罪から清められる。光の子と見做されていく。光の交わりへと加えられていく。教会は、光である神様に希望を見出し、命を受け取り歩んできました。「光の中を歩みなさい」神様は今日もあなたを招いておられます。
エゼキエル書36章22-38節
荒れ果てていたこの土地がエデンの園のようになった。
荒れ果て破壊されて廃墟となった町々が城壁のある町になった。
一人では困難な課題も、チームで対処することで解決に向かうことが多々あります。ことわざに「三人寄れば文殊の知恵」という教訓もあれば、毛利元就も「三本の矢」として家族の団結を語ります。聖書もまた「ひとりが攻められれば、ふたりでこれに対する。三つよりの糸は切れにくい。」と、交わりの豊かさを説いています。
イスラエルがバビロニア帝国の支配下にあった時、エゼキエルは神様の言葉を民に伝えます。
「これは主の裁きである。しかし今、私の霊をあなた方に与える。時が来れば、イスラエルの廃墟は建て直される。その時人々は、私が主なる神であることを知るようになる。」神様の愛が、私たちの外見・内面などに依拠するならば、容易く取り去られていくものでしょう。しかし神様は、神様のために、人を愛するのです。一見、傲慢にも思える考え方です。それでも私たちの側に愛される理由が何一つ無いと知る時に、それにも関わらず愛してくださる、神様の恵みを覚えます。この恵みにより、神様と人・人と隣人・人と自然世界との関係は回復すると語られています。私たちは神様が繋ぎ合わせる交わりへと、今日も招かれているのです。